Mag-log in榊グループ主催の医療支援報告会は、翌々日の午後に開かれる予定だった。
壇上のマイクはまだ使われておらず、銀色の支柱だけが照明を拾っていた。 会場は、都内のホテルに併設されたイベントホール。二階へ上がる広い階段と、吹き抜けのロビーがある。青嶺療養院の関係者も招かれていると聞いた時、私は資料の端を指で押さえたまま、しばらく目を上げられなかった。 葵さんにつながるかもしれない場所。 同時に、未央が何かを仕掛けてくるかもしれない場所。 その二つが、同じ紙の上に並んでいる。「行かない選択もあります」 高瀬さんが言った。 榊邸の会議室には、律、相良さん、高瀬さん、それから情報管理部の主任がいた。机の上には、会場平面図、招待者リスト、警備計画の写し、報道受付の動線が並んでいる。 私の前に置かれているのは、未央の手元へ届いた可能性のある案内図の印刷だった。 赤い線。 階段。 踊り場。 撮影位置。 赤い線の上で、目が止まった。けれど、足りないと言い募れば、また確かめるより先に動いてしまいそうだった。 グラスの水面が、空調の振動でわずかに揺れた。 律が、拒否文の最後を指した。「報告会には来るようです」 青嶺療養院の院長名で、出席確認の返信が添付されていた。支援事業への謝意、今後の連携への期待。きれいな言葉が並んでいる。 その下に、小さく名前があった。 青嶺療養院 院長 松浦和臣。 葵さんのことを知っているかもしれない人。 そして、知っていて黙っているかもしれない人。「会場で質問できますか」 高瀬さんは一度、言葉を選んだ。「公の場では難しいです」 高瀬さんが言った。「医療情報に触れる質問はできません。ただ、施設の支援事業、入退館管理、面会制度について一般論として聞くことは可能です」「一般論」「そこから矛盾を拾います」 派手な答えは出なかった。私は「一般論」と書かれたメモへ丸をつけた。 その夜、私は自室で報告会用の服を選んでいた。 派手すぎず、地味すぎず。榊家の席にいても不自然ではなく、未央が「みすぼらしい」と言い立てる余地も少ないもの。 そんなことを考えている自分に、少し笑いそうになる。 服一枚にも、まだ如月家の声が残っている。 鏡の前でジャケットを合わせていると、扉が控えめに叩かれた。「朝霧さん」 律だった。「開いています」 入ってきた彼は、手に小さな箱を持っていた。「宮野からです」「また宮野さんですか」「ええ。今回は本当に」 疑うように見ると、律は箱を机に置いた。 中には、控えめな真珠のイヤリングが入っていた。高価すぎず、安物にも見えない。服に合わせても、顔だけが浮かない。「借り物ですか」「榊家の備品です」「備品」「言い方を間違えました」 少しだけ、笑ってしまった。 律は困ったように目を伏せる。「つけるかどうかは」 律が言いかける。
「ここが報道受付です。一般来賓はここより内側へは入れません。階段上の撮影位置は、公式カメラと登録媒体だけに限定します」「未央さんが報道関係者を使う可能性は」「あります。ただ、登録のない媒体は入れません。招待状を持つ来賓として入る可能性の方が高いでしょう」「如月家の名義で?」「もしくは桐生家側の同伴者として」 桐生家という言葉に、指先が止まった。 平面図の紙が擦れる音だけが残った。 桐生司。 もう恋の痛みではない。それでも、三年前に私の言葉を聞かなかった人が、また同じ場所に立つかもしれないと思うと、古い傷のふちが少し熱くなる。「司さんには、こちらから連絡しますか」 私が聞くと、高瀬さんは一度だけ律を見た。 律は、私を見ていた。「朝霧さんが望むなら」「望む、というほどじゃありません」 正直に言った。「あの人に助けてほしいわけじゃないです。でも、また知らなかったと言われるのは嫌です」 高瀬さんが頷く。「では、桐生家窓口へ、会場内での接触トラブル防止に関する注意喚起を送ります。特定の人物を犯人扱いする内容にはしません」「その文面で出してください」 司に直接電話をすれば、たぶん声だけで疲れる。だから、窓口へ送るだけにした。 高瀬さんは、その場で会場側へ提出する注意喚起文の文案を作り始めた。階段付近での接触防止、来賓導線の明示、体調不良者が出た場合の救護手順。どれも地味で、見出しにはならない項目ばかりだった。 高瀬さんの画面に、救護手順、接触防止、映像保全の三項目が並んだ。私はその順番を黙って見た。「階段のカメラ、保存期間は何日ですか」「通常は三十日です。ただ、今回は会場側で当日分を別保全します」「今日のうちに?」「終了後すぐです」 私は平面図の端に、小さく三十日、と書いた。 その日の午後、青嶺療養院から面会申入れへの回答が届いた。 結果は、拒否。 理由は、対象者の心身状態への配慮と、家族代理人からの申し出。 対象者の
榊グループ主催の医療支援報告会は、翌々日の午後に開かれる予定だった。 壇上のマイクはまだ使われておらず、銀色の支柱だけが照明を拾っていた。 会場は、都内のホテルに併設されたイベントホール。二階へ上がる広い階段と、吹き抜けのロビーがある。青嶺療養院の関係者も招かれていると聞いた時、私は資料の端を指で押さえたまま、しばらく目を上げられなかった。 葵さんにつながるかもしれない場所。 同時に、未央が何かを仕掛けてくるかもしれない場所。 その二つが、同じ紙の上に並んでいる。「行かない選択もあります」 高瀬さんが言った。 榊邸の会議室には、律、相良さん、高瀬さん、それから情報管理部の主任がいた。机の上には、会場平面図、招待者リスト、警備計画の写し、報道受付の動線が並んでいる。 私の前に置かれているのは、未央の手元へ届いた可能性のある案内図の印刷だった。 赤い線。 階段。 踊り場。 撮影位置。 赤い線の上で、目が止まった。「行きます」 返事は、自分で思ったより早かった。 律がこちらを見る。「理由を聞いても?」「逃げたら、また私のいないところで話が作られます」「危険を承知で、ですか」「危険だから、準備します」 言い切ったあと、膝の上の手を開いた。指先は冷たかった。「ただし、条件があります」 律は平面図から顔を上げた。「またですか」「嫌そうですね」「いえ。慣れてきました」 相良さんが、かすかに口元を伏せた。笑ったのかもしれない。 私は平面図へ視線を戻す。「まず、私は一人で階段付近へ行きません。移動は相良さんか会場スタッフに同行してもらう。未央さんに呼び止められても、個室や階段横の死角には行かない」 平面図の階段横に、赤いペンで小さく印をつけた。そこだけ、紙の白さが妙に目立つ。「それから、ロビーと階段の映像は、会場側の公式記録として残してください。私のためだけじゃなく、安全管理として」「妥
「見せる?」『本物かどうかを決めるのは、血だけじゃありません。信じさせた方が勝つ』 壁の時計が一つ進むたび、誰かの息づかいが浅くなる。 その言葉は、優しくなかった。 でも、未央の胸にはするりと入ってきた。 信じさせた方が勝つ。 三年前、その言葉を知らなくても、未央は同じことをしていた。「栞を、また悪者にしろってことですか」『私は何も命じていません』 康生は、わずかに笑ったようだった。『ただ、人は一度刷り込まれた印象を信じやすい。被害者がまた同じ相手に傷つけられたとなれば、周囲は理由を探すでしょう』「……ひどい人」『そう思うなら、切ってください』 切れなかった。 康生はそれも分かっている。 未央は奥歯を噛んだ。『場所は送ります。来るかどうかは、あなたが決めることです』 通話が切れた。 未央はしばらく、暗くなった画面を見つめていた。 証明。 何を。 自分が本物だということを。 栞が危険な女だということを。 司が間違っているということを。 全部、証明しなければならない。 続けて、もう一通届いた。 日時と場所だけが書かれている。 榊グループ主催の医療支援報告会。 会場には、青嶺療養院の関係者も招かれる予定。 続けて送られてきた添付画像には、会場の案内図があった。 二階へ上がる広い階段。 踊り場。 来賓控室。 報道用の撮影位置。 どこに人が立てば、どこから見えるのかまで、赤い線で印がついている。 未央はその画像を拡大した。 栞はきっと来る。 葵という女の名前を出されれば、あの人は逃げない。逃げないくせに、きれいな顔で正しい手続きを踏む。そういうところが、昔から気に入らなかった。 案内図の赤い線を見ていると、喉の奥が少し乾いた。 怖いと思ったのは一瞬だけだった。 使える。
「間違いだったかどうかより」 司が、唇を噛んだ。「俺、君を選ぶことで、栞を黙らせた」 未央は言葉を失った。 そんな言い方をされたことはなかった。 清潔に保たれた廊下の匂いが、かえって閉じ込められた部屋の湿気を際立たせていた。 司が未央を選んだ。それだけは、ずっと疑ったことがなかった。「やめて」 未央は低く言った。「そんなふうに、私たちのことを汚さないで」「汚れてたものを、見ないようにしてただけだと思う」 司の声は震えていた。 震えているのに、逃げない。 未央は、急に怖くなった。 司は、いつも逃げる人だった。曖昧に笑い、家のせいにし、未央が泣けば黙った。だから扱いやすかった。 なのに今日は、逃げない。 逃げない司は、未央の知っている司ではなかった。「私、本物なの」 気づけば、その言葉が口から出ていた。 桐生会長が目を細める。 司も黙った。「如月家の娘なの。だから、司さんの隣にいていいの。そう言われたの。そうじゃなかったら、私、何なの」 声が崩れた。 今度は、本当に涙が出た。 けれど、司は立ち上がらなかった。 桐生会長が、弁護士へ目配せする。「如月家との婚姻話は、法的確認が終わるまで白紙です。未央さん、今日はお帰りください」「白紙」 未央は、その言葉を繰り返した。 白紙。 未央は、テーブルに並んだ「如月未央」の文字を見た。今、その文字まで薄くなっていく気がした。「司さん」 最後に、彼を呼んだ。 司は目を閉じた。 言葉はそこで止まった。 未央は立ち上がった。 テーブルの上の茶には、一口も手をつけていない。湯気はもう消えている。 部屋を出る時、指輪がドアの縁に軽く当たった。 乾いた音がした。 車に乗り込むと、涙は止まっていた。 代わりに、肋骨の下がすうっと冷えていく。 スマートフォンを
弁護士が、初めて口を開いた。「ただし、発表をすれば、桐生家がその内容を保証したと受け取られます。現時点では、出せません」 出せません。 たったそれだけの言葉で、未央の足元から、柔らかな絨毯が剥がされた気がした。 未央は司を見る。 司は目を合わせなかった。 その仕草だけで、腹の底が冷えた。「司さん」「未央」 司の声は疲れていた。 それが、余計に腹立たしかった。 疲れた顔をしたいのは、こちらだ。「説明して。何の再確認? 私たち、もう式場も」「式場には、仮押さえの解除を連絡した」 未央の指が止まる。「誰が」「俺が」 司は、ようやくこちらを見た。 その目に、以前の曖昧な優しさはなかった。けれど、強さとも違う。何かを失ったあとの、諦めに近い色だった。「勝手に?」「勝手に進めてたのは、俺たちの方だ」「俺たち?」 未央の声が低くなる。「私が、いつ勝手にしたの。私は、司さんと結婚するって、ずっと」「未央」「ずっと待ってたのよ」 最後の音が揺れた。 泣け。 体のどこかが命じる。 泣けば、司は困る。困れば、こちらを見る。昔はそうだった。困ったように眉を下げて、未央を傷つけない言葉を探してくれた。 ただ、司は視線を逸らさなかった。「栞にしたことを、確認してる」 栞。 その名前が出た瞬間、未央の中の何かが、薄く裂けた。「また、その名前」「避けてきた名前だ」 司は、言い訳を飲み込むように言った。「俺が」 未央は笑った。 笑えた、と思った。「立派ね。今さら反省して、いい人になったつもり?」「いい人にはなれない」「じゃあ何? 栞に許してもらうために、私を捨てるの?」「許されるとは思ってない」 司の返事は、いちいち未央の欲しいところを外してくる。 優しくない。
「律様、お時間です」 低い声が、扉の外から響いた。 広い執務室の奥で、榊律は窓の外に背を向けて座っていた。 机の上には、如月家に関する調査資料が並んでいる。 その一番上に、朝霧栞の写真があった。 コンビニの制服姿で、視線を逸らすように横を向いている。ひどく疲れた顔をしているのに、背筋だけは真っ直ぐだった。 律は写真の端に指を置いた。 三年前の豪雨の夜。 高架下で膝を抱えていた少女の横顔を、彼は覚えている。 名前を名乗ることも、声をかけることもできなかった。 ただ傘を差し出した。 そのあと彼女がどこへ消えたのかを、ずっと探していた。 「やっと、見つけ
司は廊下の壁際に立ち、こちらを見ていた。 三年前より少し痩せたように見える。 けれど、きちんと整えられた髪も、上質なスーツも、昔と同じだった。 何も変わっていない。 そう思ったのに、胸の奥だけが一瞬、昔の痛みを覚えてしまった。 「栞……」 呼ばれた名が、廊下に落ちる。 私は足を止めなかった。 「話があるんだ」 司が一歩踏み出す。 その指先が、私の袖をかすめた。 反射的に振り払った。乾いた音が、静かな廊下に響く。 「今、あなたと話すことはありません。私は如月家の人間でも、あなたの婚約者でもありません」 司の顔がこわばった。 「栞、俺は……」 「
病院の個室には、消毒液の匂いと、心電図の小さな音が満ちていた。 ベッドの上の静江さんは、記憶の中の人よりずっと小さくなっていた。 頬は痩せ、手の甲には細い血管が浮いている。酸素マスクの下で、唇だけがかすかに動いた。 「静江さん」 名前を呼ぶと、まぶたが震えた。 ゆっくり開いた目が、私を捉える。 濁りかけた瞳の奥に、ほんの少しだけ昔の光が戻った。 骨ばった手が、シーツの上を探るように動く。点滴のチューブが、白い布団の上でかすかに揺れた。 私は慌てて、その手を両手で包み込んだ。 驚くほど冷たい。 それなのに、弱い指先が私の手を握り返した。 「し……お……り
午前二時過ぎ。 私を捨てた父が、コンビニのレジの前に立っていた。 「栞、少し付き合え」 自動ドアが閉じる。外の湿った夜気が途切れ、店内には揚げ物の油と、温めすぎたおでんの匂いだけが残った。 夜勤の店員は私一人。レジ横のホットスナックケースが、じり、と小さく音を立てている。 如月隆一。 如月グループの代表で、かつて私が父と呼んでいた人。 三年前、私を家から追い出した男だ。 私はバーコードリーダーを静かに置いた。薄い手袋越しの指先が震えている。それが、何より腹立たしかった。 「……何の御用ですか」 「話がある」 「申し訳ありません。雑誌と公共料金のお支払いでし